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◆昨2012年度は遺構のトレースを進める。
◆今年度、しばらくできていない埴輪の整理の再開に向けて、道上君と作業。1000-18:00。まずは考古学実習室および暗室の整理からはじめ、玉手1の遺物の処理(早くやって柏原市に返却しなければならない)、それからTM304、TM306、そしてtM308の順に、箱書きを改めながら整序し、コンテナを台車に載せて運びやすいようにしながら整理する。
◆TM308は思ったほど遺物はない。今後、戦略を練って、最低、週1回の定例整理を再開する必要がある。3c046a6a.JPG
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◆現地までは右の地図をご参照下さい。近鉄「河内国分駅」から徒歩約15分です。17b4fc0c.jpg
◆遺跡地周辺に駐車場はありません。
◆柏原市立の老人福祉施設「やすらぎの園」(日曜休園)の敷地内です。道路脇の入り口には車止めがありますが、坂をのぼり施設入り口までお越し下さい。受付があります。

◆研究機関等へ送付した発掘調査案内に岸本の携帯電話の番号を記しております。17b4fc0c.jpg
◆このブログをご覧になって見学を希望される方は、調査期間中に限り設定したna2054onepeace@yahoo.co.jp、までご連絡ください。
◆現地までは右の地図をご参照下さい。
◆遺跡地周辺に駐車場はありません。
◆柏原市立の老人福祉施設「やすらぎの園」(日曜休園)の敷地内です。利用者の迷惑にならないよう注意願います。
◆なお岸本の大学のアドレス宛メールは、転送するようになっておりませんので、調査期間中は、基本的に見ることはありません(また8月2日以来不調で受信できていません)。

【調査期間】8月6日~9月25日(予定)
9月17日(水)写真撮影、午後から実測
9月18日(木)~20日(土)実測
※この間、墓坑など検討箇所の精査および断ち割り。
9月21日(日)、現地説明会
9月22・23日、埋め戻し
9月24日(水
)、撤収
※台風の影響が最小限でありますように!
◆9月25日(木曜日)第46日(くもり)8:30-17:00) 岸本・川畑・黒川・白井・日野・永井+新谷・樋原・畑・古田(大阪市大)caec34ed.jpg
・終わりました。
・8:30、昨日、少人数で、果てがないように思われた礫、今日は3人の助っ人をえて、目に見えて進んでいくのが嬉しい。12:00に終了。
・礫面をきれいな面になるよう、大きな礫を下部へ移動し、起伏を平坦に整える。
・12:45(?)には再開、土嚢を調査区周囲まで運ぶ(1時間かかってしまう)。それを開いて埋め戻し。
・15:30(?)、完了。記念写真(右)。
・16:45、器財搬出、バンに積み込み、やすらぎを辞す。
・19:00、宿舎の掃除を終え、石川さんに挨拶をして、大学へ向かう。
2665a8cb.jpg
・20:00前、大学着、ブルーシートなど片付け、学生らが電車経由で到着するのを待ち、倉庫へ器財を搬入
・21:00、くら寿司で慰労会(右)。最後まで残ったこの5人に拍手!
・22:00、杉本町駅で学生たちを送り、国分へ向かう。
・23:00、レンタカーを国分駅前の駐車場に入れ、北阪の自家用車(宿舎関係の荷物+ゴミ)を取りに行く。
・0:00、自宅へ戻る。ゴミを出したり、家に引き取るモノの搬入。
・そのあともありますが、わたくしごとです(いま2:00)
※ほんとうに長い一日だった・・・



◆9月24日(水曜日)第45日(はれ)8:30-18:20 岸本・川畑・黒川・白井・日野・永井+樋原ef155036.jpg
・埋まらん!人が少ない!
・7割5分か
・明日、助っ人を立てて、なんとか午前中に埋め終えたい。
・北野さん、ケーキありがとうございます。






◆9月23日(火曜日)第44日(はれ)8:30-18:20 岸本・下垣・川畑・黒川・白井・藤原・日野・原田・永井cfea6d99.jpg
・調査区の南壁・西壁の写真。
・東北隅の礫、写真・図面8f69c3fe.jpg(写真右)。
3c3d8614.jpg
・西トレンチの精査、写真・実測(写真中)。
・棺床部中央北の赤色面のない礫の精査、除去、写真(左)。
・赤色顔料サンプリング。
・底面の最終点検。
・東南隅部の排水溝の確認のため、礫を一部除去。調査区の範囲内では墓坑東辺が南へ続く。
・現場作業を15:00に終える。
・15:30から埋め戻し。
1)底面には薄い土嚢を敷き、真砂土を入れる。
2)壁面部には土嚢を積み上げて礫を養生する。
3)さらに土嚢をある程度入れた後、礫の投棄にかかる。
※排土はすべて土嚢に入れてきたので楽なのだが、石という奴はやっかいである。容積的にはかなり埋めたが、石の多さを考えると、全体のおよそ1/4の作業量を終えたか?
・下垣・藤原・原田、去る。明日中に埋めたいが、正丁3人を失う。

◆9月22日
(月曜日)第43日(はれ)8:45-18:20 岸本・下垣・川畑・黒川・白井・藤原・日野・原田・永井+樋原6104e4bf.jpgdd29bfe9.jpg1855722f.jpg088bc89e.jpgb5ced6f0.jpg
【見学者】
鐘方正樹(奈良市)
・実測作業。
・棺床部断ち割り写真(上右)後、さらに10㎝程下げ、下部の構造をさぐる。
・西南隅部の仕上げ土除去、被覆粘土を露呈させる(写真上中)。
・東北隅部の板石と礫の検出。
・南トレンチ精査、写真・図面(写真下右)。
・北トレンチ精査、写真・図面(写真上左)。
・西トレンチ精査。
・調査区の南壁と東壁の層位図。





◆9月21日(日曜日)第42日現地説明会(晴れ、のち雷雨74899d0e.jpg)8:30-16:00 岸本・下a0addd34.jpg垣・川畑・所・諫早・黒川・白井・藤原・原田・78bf0c8f.jpg永井
・現地説明会のための清掃。
・岸本は大学で資料などの印刷をして11:00戻り。
・実測作業、少々。

・諫早君は本日まで。
・13:00雷雨、14:00前くもり、14:50頃、再び雷雨。
・現地説明会資料に使用したレーザースキャンデータを陰影図に仕上げたもの(中)(古い段階のもの)。

・14:00から駆け足で説明。参加約100名。
・ずぶぬれ。夕方に仕事をする気にはなれないので、16:00には上がる。
・夜、打ち上げ(焼肉→飲み屋)。散財しました。日野、守田、、駆けつける。

◆9月20日(土曜日)第40日(はれ)8:30-18:20) 岸本・川畑・所・諫早・白井・藤原・日野・原田・永井e3bd889d.jpg
【見学者】白神典之(堺市)
・実測作業のつづき
・横断東半部の礫床の断ち割り
・岸本は帝塚山の講演会で午後抜け。
・夜、現地説明会資料の最終作成(川畑君は朝4時まで)。
・遺物の実測図に奮闘したみなさん、お疲れ様。
・マスコットキャラクター「たまさん」が公式に登場しました(21日のところ参照)。


◆9月19日(金曜日)
・「午前中は天気はもつ」と期待し山に上がったが、降雨で断念。今日はしゃーない。
・明日、台風一過、頑張ろう。
・昼過ぎ、写真撮影をして、宿舎で図面が書けるよう準備した。

◆9月18日(木曜日)第39日(くもり)8:30-17:45 岸本・川畑・諫早・黒川・白井・藤原・日野・原田・永井
・実測作業
【見学者】坪の内徹・宮路淳子ほか奈良女子大学のみなさん
・以前からの気になっている点があり、撮影した画像、これまでの画像を、昨夜、見直していました。その結果、上半部は構築墓坑である蓋然性が高いとの判断に至りました。
【所見】
・まず、墓坑を覆う粘土は認識しているが、それは乱掘で切れており、粘土下面が描く墓坑壁(?)が下部へどう
2ca345cd.jpgのびるかは、2006年度段階では確認できていなかった。
・今回、下部へ掘り進み、墓坑控え積みの上部の大礫が姿を現しており、よく残っている部位では追求できないが、撹乱等で穴が空いている箇所については、その裏側の検討がいくつかの箇所でできる。
・まず東北隅部では、大礫の裏側を探索したが、しっかり壁はでない。大礫の裏側の土はややしまりがなく、大礫の裏
側を完全に出せば、そこが壁になるだろうと思われた。壁らしい、ある程度締まった面を出したように思ったが、東辺に回ってくると、壁として止めた面を越えて、下部の礫は外側に続いていく。西トレンチの2006年度断ち割り部の再検討でも、ほぼ同様。
・そして、その前から頭を悩ませていたのは東南隅部である。調査区東辺は撹乱が広く、畦沿いでは乱掘坑底面で墓坑東辺ラインを検出し、ここでは墓坑壁があり、内部に小礫が詰まっており、掘り込み墓坑でよいと判断していた。
・その東辺を南に追いかけていった時、東南隅部(板石の集中がある)には盛土と考えてきた黄色土を残してきていたのだが、それとの関係が、うまくかみあわなかった。底面での墓坑東辺ラインが、乱掘のおよばない東南部に至ったとき、当然、墓坑壁が立ち上がり連続すると想定したが、接続が確認できなかったのである。
・底部の東辺はずっと南に続き、隅部近くにまで達しても、墓坑は立ち上がらず、それを覆うように板石がある。
・隅部に残してきた盛土とみてきた黄色土の下部では、底部で確認している東辺ラインよりも外にも礫が入る。その状況は調査区東辺中央部の乱掘坑底部の状況と共通するため、乱掘が隅部付近までおよんでおり、盛土とみてきた黄色土は再堆積と考えざるをえないと判断した。
・盛土と考えてきた隅部の黄色土については、調査開始後、何度も検討してきた。盛土としては頼りなく、繰り返し少し削っては、よりしっかりした土を探索してきた。そして、これでいいだろうというところで止めていたもの。
・底部の墓坑東辺ラインと整合しないので、再度、この隅部の盛土にアタックし、しっかりした盛土と考えられる所まで削っていき、黄色土の下で白色のかなりしまった土壌に達したので、これで決まりと思った。それでも下部に礫が入る状況は変わらなかったので、最終的には除去してしまう。この段階で慎重に解釈の総点検をすべきであった。大きな失敗である。
【現段階の想定】
・埋葬施設構築前には、現在、東辺で墓坑ラインを検出面である白色の卓越した堅い盛土面までできあがっている。
・そこに四角く墓坑を掘り込み(おそらく排水溝も)、基礎のグリ石を入れる。
・次に石棺の身を搬入し据える。
(・墓坑ラインを検出する際、盛土上には汚れた、しかし、締まった粘質土が礫を含みつつ貼り付いていた。これは作業面として硬化したものと思われる。)
・次に、石室下半部を積み上げ、小礫を裏込めとして充填する。石室下半部は掘り込み墓坑の範囲である。
・そのあと石室上半部にあたる範囲については、周囲に板石などを置きながら、およそ墓坑相当の範囲に礫を充填し、背後に盛土を施していったと考えられる。
・また、下部の掘り込み墓坑はほぼ長方形と推測するが、構築墓穴の裏込めは、だいたいの範囲であり、そしてその範囲はだんだんと小判形となっていたと思われる。最終的に仕上がった最上位の大礫の平面形からは、そのように推測できる。そして、上面の礫を全面的に被覆粘土で覆う。
・この粘土は構築墓坑と同時に築成した盛土上面から貼り付け始め、その上面の高さよりも盛り上げるようにしており、「被覆粘土」とよぶにふさわしい。この埋葬施設では、天井部分からやや広い範囲に被覆粘土を貼り付けるのではなく、墓坑相当の礫の範囲全体を覆っており、きわめて特徴的といえる。
・なお、遺骸に副葬品を添え、棺蓋を被せる儀礼時に、それがまったく平らな空間であったとは考えにく、ある程度の深さのある空間を作り出していたとみるべきではないか。そうなると上部の大礫は擁壁としてのものであったことも考えておかなければならない。
・上記してきたような構築方法であった点について、徹底的な追求はできないが、一定の確からしい判断ができるよう、可能な限り精査を試みたい。

◆9月17日6527d541.jpg(水曜日)第38日(くもり)8:30-18:20 岸本・川畑・諫早・白井・藤原・日野・原田・永井8d65765e.jpg
・報道資料提供(14:00)各社から電話。2社が現地を訪れる。
・午前中、完掘写真。写真日和で順調。
・午後、レーザースキャンによる陰影図が届き、それに基づき実測にかかる。が、思いの外ダメ。20~30㎝の礫なら十分だが、5㎝前後の礫は厳しい!。計測時にCCDカメラによる映像も取得しており、それのカラープリントの方がよかったかもしれない。
・17・18・19・20で終わるだろうか。天気が心配。台風よ、来るな!

◆9月16日(火曜日)第37日(くもりのち晴)10:00-17:45 岸本・川畑・諫早・黒川・白井・藤原・日野・原田・永井07ffd975.jpg
【調査指導】森屋直樹・岡田賢(大阪府教委)
99263836.jpg
・完掘写真撮影のための清掃。15:30頃より撮影にかかるが、思いの外天気が回
復し雲なし。ヤグラから撮影したが、明日撮り直し。途中から地上写真に切り替えたが、全景まで。細部はまた明日。
・昨日、記者発表用に主だった出土品を撮影したので、公開しておく。銅鏃は2006年度出土品1をあわせて13点、小札は形をなすもので50点ほどとなっている。その他の鉄製品は、いずれも5㎝までの断片だが、多数ある。数ミリの鉄辺は500片ほどか。


◆9月15日(祝)第36日(はれ)8:30-18:20 岸本・川畑・諫早beaef323.jpgdcdcfd93.jpg黒川・白井・藤原・日野・原田・永井、北野(市教委)
【見学者】吉井秀夫(京大)

・午前は、レーザース
キャン(協和による)。
・午前を含め、この数日、掘り上げを優先してきてたまっていた排土のフルイを行い、完了する。
・2006年南トレンチを一部開ける。
・いくつかの箇所で墓坑の検討。西南区の木の根の撹乱部を利用し、観察
しやすいように東西方向に断面を切ると(写真右下)、墓坑最上層の粘土は、被覆粘土風に盛り上6eaa47a4.jpg9691908d.jpgげている様子がはっきりした。2006年度にも、墓坑の掘り込み口よりも外側まがおよぶことを確認していた。精良な粘土であり、墓坑部のみとは考えられないので、やはり、墓坑全体を被覆粘土風に粘土で封じていたと推測できる。




◆9月14日(日曜日)第35日(はれ)8:30-18:20 岸本・川畑・所・守田・諫早・黒川・白井・藤原・日野・原田・永井、桑野(市教委)35d205d2.jpg
【見学者】関真一(府教委)、安村俊史(市教委)、角南・千葉(和泉市教委)、丸吉(山形県教委)

・完掘しました
・石室の規模はまったく不明ですが、南木口に相当する可能性を残す板石があり、そこから北側の赤色顔料の顕著な部分までで4m弱であり、通常の前期の長大な木棺を納めた石槨よりも規模は小さい(例えば安福寺石棺2.6m+縄掛突起の規模にみあう)。
・粘土床をもたない。いま検出している礫面の上に粘土床を構築していたことも考えておかなければならないが、粘土床を掘り抜いていることはしばしばあるが、掘り抜いた部分、でこぼこになった部分はあっても、棺床部全体の粘土を掘り上げることはまずない。赤色顔料の残る面が棺床部そのものであると判断している。
・そして、棺床部まで壁体や控え積みを徹底して壊している点は、通常の木棺を納めた石槨では考えがたい。
・以上のことから、棺は石棺だった蓋然性が高いと思われる。
・久米田貝吹山古墳でも、棺床は小砂利であったという(廣瀬氏のご教示)。

◆9月13日(土曜日)第34日(はれ)8:30-18:20 岸本・川畑・守田・諫早・白井・藤原・小原・呑村・日野・原田、北野(市教委)
【見
f728b1a8.jpg学者】澤田秀実(くらしき作陽大)・酒井(阪大院)、廣瀬覚(奈文研)、関本優美子(橿考研)、土屋みづほ・三好君(府教委)
・畦だった部分の盗掘底面すなわち棺床部の精査。
・壁体をなす板石はない。
床面に相当すると思われる、赤色顔料が顕著でやや高まった混礫土面、および周囲に赤色顔料の付着した礫が広がる。
・遺物はこの直上で出土するので、この面まで露呈されたと考えてよい。
・底面外周部では、この礫面の上に板石が載る地点がいくつかある。したがって、この礫面がひ
とつの作業単位であり、壁体構築までの基礎に相当するバラスで、そこで赤色顔料を塗布したと推定される。fd547ce1.jpg
・そして板石が全面的にしかれたかどうかは不明ながら、この工程後、棺、壁体の構築に進んだと推測する。
・西壁では、下半部に小礫が、上半部で大振りの礫が見られることは既に報告したが、おそらく棺身を据え、そ高さまで小礫による控えを充填したのであろう。
・通常の竪穴式石槨では、壁体の裏込めは、基礎のバラスよりも大きな礫を入れているが、3号墳では礫床と同じ小礫によっている。
・なお、2006年度の東トレンチを再掘削し、東辺での乱掘掘り込みを底面まで掘り上げた(写真右下)。
※14日に、安村氏に多くのご教示をいただいた。



◆9月12日
(金曜日)第33日(はれ)8:30-18:00 川畑・守田・諫早・黒川・白井・藤原・呑村・日野・原田・永井66f6a35b.jpg
・岸本は大学院入試で休み。畦撤去を継続し、ほぼ下まで到達(写真は13日朝撮影)。
・本日夜、学生たちの飲み会は盛り上がったようである。主役はOO大学S君。







◆9月11日(水曜日)休み

◆9月10日
(水曜日)第32日(はれ)8:30-17:20 岸本・下垣・川畑・諫早・藤原・日野・原田、北野・桑野(市教委)2ee2ae35.jpg
・下垣さんがまとまって参加できるのは今日まで。お疲れ様でした。また、ここまで尽力いただき、ありがとうございました。
【南区】
・東西畦の層位図注記後、畦の除去開始。表土・黄褐色土・炭層までを除去。
【北区】
・畦はずしにかかるまで、底面の精査。





◆9月9日(火曜日)第31日(はれ)8:30-18:10 岸本・下垣・川畑・諫早・黒川・白井・藤原・呑村・日野・永井・原田、北野(市教委)2d4fae80.jpg
【見学者】石野博信、塚田孝(大阪市大)
【南区】
・東西畦除去にむけて、壁面線引き、清掃。写真(カンカン照り)・層位図作成。
・東辺墓坑検出継続、隅部の精査。
【北区】
・底面の精査(途中)。赤色土を検出。


◆9月8日
(月曜日)第30日(はれ)8:30-18:30(暗い!) 岸本・下垣・川畑・諫早・黒川・白井・藤原・呑村・日野・井・原田、北野(市教委)4465f13f.jpg
【見学者】奥田尚氏
・秋晴れ、タイタニック2号竣工。管玉1出土。
【南区】(右図)

・南北畦南端部、底面についても、畦ほぼ掘り上がり。一部、精査が必要。
・西壁は、控え積みの純礫層が立ち上がる。下半分は小礫を入れ、上部には大きな円礫を用いている様子が明瞭である(写真下の右)。
・東西での掘り込みの違いは、以前に断面模式図を示した通り。盗掘坑は東は墓坑上口よりも広い。この東西の差から、石棺は(石棺があったかどうかも未確定ですが)東側に蓋を開けたのだろう、あるいは転がしたのだろうと思われる。
7ddc1824.jpg3c67a173.jpg
・東辺で墓坑検出、隅部には板石が積み重なっており、控え積みに板石を使用したもあったらしい(写真下の左)。東辺では、ほかにも墓坑壁に沿って板石のある箇所がある。
【北区】
・南北畦の除去を完了する。管玉出土。
・西北区においても、部に盗掘壁を検出し、控え積みのオリジナルがほぼ見えている状況に仕上げる。

◆9月7日27cfb7b0.jpg(日曜日)第29日(はれ)8:45-18:20 岸本・下垣・川畑・所・守田・黒川・白井・藤原・日野・谷・井・原田+若杉(奈文研)、桑野(市教委)
【見学者】小浜(大阪府)、白谷朋代(芦屋市教委)
・今回の現場のヤマでした!。
石棺がないことが確定(残念

・天気良く、人員もおり、掘削・フルイとも回転よく進む。
・小谷さんは今日まで。お疲れ様でした。


【南区】
19e1832c.jpg78611835.jpg
・畦の下だった部分の精査。棺床に相当すると思われる箇所にベンガラが認められる。ンガラの目立つ南帯が西にあり、その間は顔料のない小礫による凹部がある。現段階、この凹部が棺床で、両側のベンガラ帯棺外ではないか。ベンガラが途切れるところ石室壁体あたると思われる(ちょっとそれでは幅広い。9/8)。壁体と考えられ実な板石はなく、南区では完全に壁体がなくないる。また盗掘は棺床におよび(東西畦の脇)、盛土の黄色が覗く。これで、まだ下に石棺がという期待は潰える。
・赤褐色土が除去できたので、盗掘埋土としては下層の墓坑壁よりの黄褐色土ついて畦の除去を開始し、7進む。 962e48e2.jpg
【東北区】

・南北畦北半部の写真撮影のために清掃、撮影、層位図作成を完了する(右)。
・南北畦の撤去を開始し、表土・第2層・炭層までを除去。
【西北区】
・東西サブ畦について写真撮影、層位図作成後、撤去する。




◆9月6日
(土曜日)第28日(はれ)8:30-18:10 岸本・下垣・川畑・所・守田・白井・藤原・原田(本日から参加の立命館大学生)、桑15eccadd.jpg野(市教委)
・14:30まで昨日のフルイ、そのあと南北畦南半の撤去を続ける。
※北野さん(市教委)が以前に持ってきて下さった磁石が有効!
【東南区】(畦は正確には西南区)
・赤褐色土をほぼ掘削。数ミリのものを含め鉄
片が多数出土する。
・東辺の墓坑ライン検出。
【西南区】
・東西サブ畦の撤去を完了する。
【東北区】
・南北畦北半部の層位図作成のための壁の精査(継続)。
※近つ飛鳥博物館にいただいた柏原ワインほかで飲み会。

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